今日は「那覇まちま〜い」を使って首里城からの夕日を見に行ってきます。このツアーは現地のガイドさんに連れられて有名な観光地や有名じゃないマニアックな観光場所を案内してくれるので気に入っています。何度も那覇には訪れていますが、え、そんな場所が裏にあったんだ!と気がつくことがたくさんあります。今回行く首里城も何度か個人で足を運んだことはありますが、ちゃんと説明を受けたことがないので楽しみです。
旅行期間 2016/07月
エリア 沖縄(那覇)
テーマ 街歩き。食べ歩き
目次
・Vol.1 羽田空港タッチ! JAL DIAMOND PREMIER LOUNGE 潜入記
・Vol.2 「那覇まちま〜い」で世界遺産 首里城から夕日を見る
・Vol.3 日本航空 JAL908 沖縄-羽田 国内線ファーストクラス搭乗記
日程
1日目
バンコクから夕方羽田空港に帰国したけれど、そのまま国内線乗り継ぎして那覇空港へ!
2日目
日中は暑いので街歩きは断念。夕方からまちまーいで首里城から夕日を眺める。
3日目
日本航空 JAL908でで羽田へ。ようやく全行程終了です。
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Contents
Vol.2 「那覇まちま〜い」で世界遺産 首里城から夕日を見る
昼間は猛暑でダウン
前日の移動疲れをゆっくり癒して午後から街歩きをしようかと外へ出ます。暑い、、日差しが体に突き刺さります。ビーチで遊ぶには丁度良いかもしれませんが、この暑さで歩き回るのは体力が持ちません。とりあえずご飯を食べて夕方まで体力温存でホテルで休むことにします。
昼食はいつもの定食屋さん
お食事処 みかど

お食事処 みかど
お食事処 みかど へのアクセス
この食堂は安くて美味しい昔ながらの定食屋さんです。以前は同じ通りの別の場所にありましたが、数年前にこの場所に移動してきています。どのメニューも安くてボリュームがあって美味しいです。ここの有名なメニューは「ちゃんぽん」。ちゃんぽんと言ってもみなさんが想像する長崎チャンポンではありません。ご飯に野菜炒めの卵とじが乗ったような不思議な食べ物です。野菜たっぷりの健康メニューですが個人的には食べきれないのでいつもの「ソーキそば」を頼みます。
ソーキそば

お食事処 みかど ソーキそば
600円で大きなソーキ(豚あばら肉)が2つ乗って食べ応えがあります。出汁はカツオベースの旨みたっぷりの出汁です。3枚肉が乗っているものは「沖縄そば」になります。
そもそもなぜ「そば」になったのでしょう。一説には昔から麺類を「そば」(沖縄言葉で「すば」)と呼ぶようで、本州ではそば粉を一定量入れないと「そば」と言えませんが、沖縄そばにはそば粉は入っていません。その為これを「そば」と言ってはいけないという話もあったそうですが、昔からの慣習ですので大反対が起こり「沖縄そば」という名前にしてそのまま使っているようです。
中華そばも蕎麦粉は入っていませんが同じ理屈でしょうかね。
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「那覇まちま〜い」で世界遺産 首里城から夕日を見る
那覇の街をちょっと目線を変えて別の角度から見ることができるので最近はまっています。普通の観光旅行だと画一的になってしまいますが、これは地元の人だから知っている裏通りの隠れた名所をちょっとお散歩がてら回るような気軽さが大好きです。
おまけに料金も1時間〜1時間半で1000円〜2000円とリーズナブル。これで色々な話を聞きながら新たな発見ができるのはお得だと思います。
予約やコースなどの詳細は公式ページに掲載されていますので、那覇で時間が空いた時にちょっと気軽に参加してみると良いです。
今回は「首里夕暮れ ゆったり散歩」に参加
首里城へのアクセス
集合場所は18:30に首里城公園内首里杜館 総合案内所 前の赤いポスト。
これがわかんないんです(笑)
守礼の門の近くだというのでその辺に行けばきっとわかると思い、少し時間に余裕を持って出かけました。
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世界遺産 首里城
沖縄にはあちこちに世界遺産があるのだと勘違いしていましたが、実は2000年(平成12年)に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」で一つの大きなくくりで登録されています。5つのグスク(お城)は首里城、中城城跡、座間味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡で、関連遺跡群とは4つの遺跡で園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽が指定されています。最近なんか合わせ技が多いですね。これは全部見て回るには大変です。
その中でも今回は何度か来ている首里城に再来してみました。
首里城公園
ゆいれーる 首里城駅
ゆいレールの首里駅から首里城までは徒歩で約15分ほど。ただ、これが実は難解なのです。まず改札を出て左右の出口があるのですがどちらに行けば首里城に行くのかがわかりません。仕方がないので出口付近の地図しばらく見て方向を定めます。
ここから更に難関が待ち構えています。
首里城まで歩く
「首里城」という表現ではなく、「首里城公園」とか「○○大学」という表示があるのですが「守礼の門」とか「首里城」とかではないんですね。沖縄有数の観光地にしては非常にわかりにくいのです。おまけに道が入り組んでいるので進んでいくにつれて「本当にこの道で良いんだろうか、、」と歩きながら不安になります。
おまけに暑いので喉も渇きます。と、その時丁度ローソンとファミマを発見!

ローソン

ファミマ
ん?なんか色がおかしい??それもそのはずです。首里城周辺は世界遺産指定の為周辺も景観保護の為「首里城っぽい配色」にしてあるようです。
どちらも緑・茶系の外観で意外と新鮮です。店内はもちろんどこにでもあるコンビニです。
道を挟んで向かい合う形でコンビニがありますが、このコンビニの角を公園に向かって曲がるともうそこから首里城公園です。しばらくそのまま道なりに歩くとほどなくして守礼の門まで無事にたどり着けました。
実は首里城までバスがあった。
帰りの首里城駅に観光客向けのA3サイズの表示を発見。

首里城へ行く
首里城へは「ゆいレール首里駅」→「首里城下町線」沖縄バス7番8番→首里城前下車徒歩1分
なんだ、バスもあったんだ、、表示小さすぎ。ポスターサイズにして掲示してくれないとわかんないよーと少し力が抜けてしまいました。
外国人の方はどうするのだろう、、と思っていたら、更に横に小さく2次元バーコードがありました。

首里城への行き方 2次元バーコード
他言語対応のバーコードがあります。一応この写真でも読み取りができましたので行く方はアクセスすると多少楽かもしれません。せめてポスターサイズにして外国人向けに”Directions to Shuri Castle”とか”路線首裡城”とか書いておかないとわかりません。せっかく2次元バーコードを作って分かりやすいマップを作ってるんだからもったいないです。
守礼の門から夕日を見に出発

守礼の門
今日の参加はなんと私一人です。なので、ガイドさんを独占できます(笑)
今日はお天気も良くなり首里城公園は非常に静かですが、二週間ほど前に中国からの客船が入ってきた時はすごく騒がしかったようです。那覇の街も客船が来ると大賑わいのようです。凄かったんでしょうね。
首里城について学ぶ
今でこそ沖縄は日本だと思っていますが、元々は琉球王朝があったところなので文化も全く違うんですね。むしろ中国の影響を強力に受けていたようであちらこちらに漢文の文字もあります。日本では室町時代。その後日本国内は戦乱の世の中になっていきますが別の文化がずっと続いていたことは自然崇拝などの話をお聞きするとよくわかります。
歴史ある琉球王朝ですが、薩摩が攻めてきたあたりから悲劇が始まり薩摩と中国との2重外交で苦しんでいたことは想像に難くありません。中国には薩摩との関係を内緒にし、諸外国との交易をピンハネしていたわけですからそりゃ大変だったでしょう。
まさに琉球の悲劇を物語っています。
歴史に学ぶ
沖縄の歴史についてはあまり知りませんでしたが、琉球王朝時代は琉球は中国の弟分で、途中から薩摩が知らない間に入ってきて属国化して近代日本で完全に日本になりました。
今の中国が問題を起こしている主張の根本の歴史観は琉球王朝の時代で考えれば、確かに言い分はその通りかもしれません。
どこの時代で区切るかによって正当性が全く違ってくるわけです。
しかし、それを言っているときりがないので戦後を区切りとして世界で合意形成したわけで、それを中国の身勝手な主張でかき乱さないで欲しいと切に願っています。
沖縄戦の遺構

帝国陸軍塹壕後
更に悲劇の後は見て取れます。
首里城のガイドマップだけだと見落としてしがちですが、ここには旧日本軍の司令部の塹壕が残されています。
司令部が作られた為、第二次世界大戦末期の沖縄戦で最終的に遺跡や重要文化財がことごとく消失してしまったことは残念でなりません。
もともとはもっと違う場所に作られるはずがなぜかこんなところに司令部が作られてしまったようで、そこからも政府が沖縄を捨て駒にしか考えていなかったことが垣間見れます。
絶海の孤島であれば侵略されることも利用されることもなかったでしょう。ただ、交易の要所にあった為に侵略や悲劇の歴史があることは学んでおくべきではないでしょうか。
今の首里城を含む重要文化財が全て焼失してしまい人類の歩んできた道が見えなくなるのは残念なことです。
沈む夕日を見ながら思う

首里城からの夕日
さて、今日は19時20分に日の入りということなのでその時間に合わせて展望台に行きます。丁度日の落ちる方向は那覇新市街地の方向で割と高めのビルが建ち始めています。昔はそれほど高い建物はなかったのですが、新市街地にはタワーマンションまで建ち始めているようです。
海の向こうには世界一綺麗な海と評される慶良間諸島があり美しい姿を今に残しています。
しかし、70年前ここは全て破壊され、右端の海岸線に戦力が10倍以上も違う兵士が上陸してきたことは悪夢としか言いようがありませんが、それはもう歴史の1ページだったと過去形にしておきたいです。今でこそ美しい慶良間の海も悲劇の舞台であったことは忘れようにも忘れられない過去ではありますが、このままずっとこの状態が続くことを願いつつ今日という1日が終わりました。
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